教皇訪日行事 東日本大震災被災者との集い

2019年11月25日(月)の教皇フランシスコ訪日行事「東日本大震災被災者との集い」における 3人の方の証言は次の通りです。(掲載順は証言順となります)

岩手県宮古市 加藤敏子さん

私は岩手県の宮古市にありますカトリック幼稚園の園長をしております、加藤敏子と申します。私はあの津波の日職場におりました。幼稚園から帰宅した女の子が1人亡くなりました。その日から、園長として子どもたちの命の尊さ、自分の命を守る術を伝えていくこと、そして子ども達の命を守るために最良の選択をしなければいけないことの重さを考え続けています。

 

自宅は街ごと津波に呑まれてしまいました。

 

津波対策として街を囲むように築かれた防潮堤が壊れました。それは、海外からも視察に来るほど大規模なものでした。人間が知恵や力を尽くして作り上げた人工物は壊され、流されてしまいましたが、自然が造ったものは壊れませんでした。人間が自然に対峙するなど出来ないこと、自然とともに生きる知恵こそ必要だということを学びました。

 

その日の朝、家を出るまであった日常が街ごとなくなる、沢山の人が一瞬で亡くなったと言うことをそのまま受け容れることが出来ず、目の前のやるべき事に追われながら私はどこかで考えることをやめてしまったような気がします。

 

ガレキの中で自宅のあった場所に立ったとき、生かされていること、生きている事、ただそれだけに感謝することができ、スッキリとした開放感を感じたことを覚えています。

 

この震災を通して、失くしたもの以上に与えられたものがたくさんありました。世界中の多くの人たちが心を寄せてくださり、人と人との繋がりで助け合って生きていく姿に希望を持つことができました。

 

8年過ぎて、ようやくあの時の前と後をすこしずつ繋げて考えるようになりました。

 

何が大事で、何を守らなければならないか。何もしなければゼロだけど、一歩踏み出せば一歩分だけ前へ進むこと。昨日の続きの今日が重なって、その先の明日へ繋がっていくことが当たり前ではないことが知らされ、命が一番大事で、失くして良い命などないこと。

 

今地球上で困難に陥っている小さな人たちの命がどうぞ守られますようにと祈りながら、生かされている自分に何ができるかを考え、一つひとつ積み重ねていきたいと思います。

 

南相馬市 曹洞宗同慶寺 住職 田中徳雲(とくうん)さん

本日はこのような機会をいただきまして、ありがとうございます。

 

私の住んでいたところは、地域のシンボル的なお寺です。

場所は原発から北西に約17㎞の所にあります。

 

農業と漁業が中心の自然豊かなのどかな場所でした。

多くの人々は3世代、4世代が同居して住んでおり、先祖から伝わる歴史と文化を大切にしていました。町には1000年続くと言われる神事、相馬野馬追いがあります。

 

私たちは、受け入れ難い厳しい現実の中で、一時は途方に暮れました。

しかし、少しずつではありますが、やがて立ち上がり、この現実を受け止め、歩み始めています。そして便利な時代の恩恵を受けて生活してきたこと、つまり「被害者ではあるが、同時に加害者でもある」ことを自覚し、反省しています。

 

原発の問題のみならず、天変地異や異常気象、海洋汚染などの環境問題、そして戦争、難民、食糧、経済格差や心の荒廃等大きな問題を、如何に自分の問題として捉えることができるか。

 

謙虚さを保ち、正しく理解し、反省すべきところは素直に反省すること。

そして何より大切だと思うことは、地球の声を聞くことです。

 

私たちは地球の一部、環境の一部です。

りんごの樹に例えて言うならば、一人ひとりが果実だとすると、地球は樹木です。

その果実から樹木への意識の目覚めが必要です。

樹木こそが私たちの本性です。

果実から樹木に意識が覚醒すれば、毛虫が蝶になるように変化が起こり、問題はひとりでに解決されてゆくと思います。

 

私たちは今、生き方が問われています。

成長から、成熟へ。自らが変化の一部になりましょう。

 

ありがとうございました。

 

鴨下全生(まつき)さん

親愛なるパパ様

 

僕は福島県いわき市に生まれました。

8歳だったときに原発事故が起きて、被曝を逃れるために東京に避難しました。

でも父は、母に僕らを託して、福島へ戻りました。

父は教師で、僕らの他にも守るべき生徒たちがいたからです。

母は、僕と3歳の弟を連れて、慣れぬ地を転々としながら避難を続けました。

弟は寂しさで布団の中で泣きました。

僕は避難先でいじめにも遭い、死にたいと思う程つらい日々が続きました。

やがて父も、心と体がボロボロになり、仕事を続けられなくなりました。

それでも避難できた僕らは、まだ幸せなのだと思います。

 

国は、避難住宅の提供さえも打ち切りました。

僕は必死に残留しているけれど、多くの人がやむなく汚染した土地に帰っていきました。

でも広く東日本一帯に降り注いだ放射性物質は、8年経った今も放射線を放っています。

汚染された大地や森が元通りになるには、僕の寿命の何倍もの歳月が必要です。

だからそこで生きていく僕たちに、大人達は、汚染も被曝も、これから起きる可能性のある被害も、隠さず伝える責任があると思います。

嘘をついたまま、認めないまま、先に死なないで欲しいのです。

 

原発は国策です。

そのためそれを維持したい政府の思惑に沿って、賠償額や避難区域の線引きが決められ、被害者の間に分断が生じました。

傷ついた人同士が、互いに隣人を憎み合うように仕向けられてしまいました。

 

僕たちの苦しみは、とても伝えきれません。

だからパパ様、どうか共に祈ってください。

僕たちが互いの痛みに気付き、再び隣人を愛せるように。

残酷な現実であっても、目を背けない勇気が与えられるように。

力を持つ人たちに、悔い改めの勇気が与えられる様に。

皆でこの被害を乗り越えていけるように。

 

そして、僕らの未来から被曝の脅威をなくすため、世界中の人が動き出せる様に、どうか共に祈って下さい。